旧尾崎テオドラ邸訪問

6月2日に旧尾崎テオドラ邸を弊会の創設者・名誉代表の原不二子と学堂会有志で訪問しました。その際、尾崎行雄とテオドラの写真のコピーを贈呈しました。

テオドラ来日とテオドラ邸
旧尾崎テオドラ邸は1888年に尾崎三良男爵が娘のテオドラ英子の英国からの来日にあわせて建築したと言われています。
また、尾崎三良と英国人バサイア・モリソンの結婚は明治日本の最初の国際結婚の一つと言われています。(詳しくは、小山騰著「国際結婚第一号 : 明治人たちの雑婚事始」をご参照ください)

忘れな草 Forget Me Not
テオドラは1905年「憲政の父」と呼ばれる尾崎行雄と結婚しました。
原は二人の孫であり、原の母は二人の次女、相馬雪香です。
テオドラは雪香に生前、次のように語っていたと言います。
「あなたの御父様は永遠に名を残すけれども私は忘れられる存在でしかない」(総合研究開発機構「尾崎行雄の政治理念と世界思想の研究」P.260 )
最後は日本ではなく病気療養中のイギリスで1932年に息を引き取ったテオドラは上記の言葉とは裏腹に「私を忘れないで欲しい」、そんな思いを持っていたのかもしれません。

過去の歴史を今につなぐ
尾崎行雄はテオドラの遺灰と共に1933年、娘の雪香を連れて英国から日本に帰国しました。
それから90年。
漫画家の山下和美先生をはじめ、多くの方々が様々なものを犠牲にし、時間と資産を投げうって旧尾崎テオドラ邸の保存運動を展開してくださいました。(詳しくは山下先生の「世田谷イチ古い洋館の家主になる(全3巻)」をご参照ください)
また、山下先生の旧尾崎テオドラ邸への思いについては、テレビ番組「築き人」(6月13日(木)20時54分から21時:BSテレ東)にて放送されますので、是非ご覧ください
山下先生をはじめとする多くの方々のお陰で、尾崎テオドラ英子は行雄と共に令和の時代の日本に生き返ることができました。
既に亡くなったテオドラと雪香に代わり、旧尾崎テオドラ邸の保存運動と一般社団法人旧尾崎邸保存プロジェクトを通じてその維持運営に関わる全ての方々に心から感謝申し上げます。

テオドラ英子の活躍
実際、テオドラは忘れるにはもったいないほどの活躍を日本でしました。
ロンドンで日本人の父と英国人の母のもとに生を受けたテオドラは、生まれ育った英国から日本へ十代後半で行きました。そして、一人の職業人として実家から独立し、英語教師や英国公使婦人秘書として働きました。
福沢諭吉の招きで再来日後は慶応幼稚舎で英語を教え、その後に様々な職を経て日本の文学を英語への翻訳を通じて世界に発信しました。
尾崎行雄と結婚後は尾崎行雄が東京市長時代に行った米国への桜の寄贈に一役買い、国際親善にも貢献しました。頭痛持ちの行雄に軽井沢を紹介したのもテオドラです。行雄は後年、「私の長生きは妻のお陰だ」と述べています。
旧憲法下の民法では女性に財産の管理権がなく、二人の結婚後、旧尾崎テオドラ邸は尾崎行雄の所有となったと思われます。家族がそこに住んだ記録はなく、これを賃貸したとすれば、経済的にもテオドラは尾崎行雄を助けたのではないでしょうか。
また、テオドラとの結婚生活は、尾崎行雄が婦人参政権を訴えた際に主唱した「家庭の立憲化」という考えに大きく影響を与えたと思われます。
このようなテオドラの活躍と世界の女性達のおかれた現状を鑑み、6月学堂会は6月13日(木)19時に国連人口基金駐日事務所の成田所長をお招きし、国連人口基金発行の「世界人口白書2024:SHRHの不平等を終わらせるために」について解説頂きます。ご興味のある方、学堂会Peatixか、本ホームページのお問合せからお申込みください。

学堂会代表 太田敦之

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